自己紹介
はじめまして。この度ヒロブログの家族の一員になりましたスコティッシュフォールドの”レオ”と言います。4ヶ月の人間で言うと8歳くらいの男の子になります。度々登場しますがよろしくお願いします。
レオとの出会い
レオとの出会いは子供のクリスマスプレゼントでの話のきっかけで「猫を飼いたいなぁ」と諦めながらも冗談で言ったんだと思いますが、それを「じゃあペットショップ行ってみる?」と言うと子どもたち目をまんまるにして。以前に私(パパ)が猫を飼っていた事がある旨、猫の一生の話、分かる範囲で嬉しいことも悲しいことも、大変なことも子どもたちには伝えてきています。
アメリカンショートヘアー、マンチカン、ミヌエット、様々な種類のいる中で立ち耳のスコティッシュフォールドのレオと出会い、とても強いフィーリングを感じました。
猫を飼う決意の現れ
決して私は猫をペットを飼うことに対して賛成しているわけではなく、どちらかと言うとネガティブに反対していました。安易に簡単に考えることではないですし、行動に移す前に自身のペットに対しての記憶、考えてしまうことのほうが多くて前に進めないといったほうが適切かもしれません。
ただ私の子どもたちはそれほど小さなわけではなくペットの面倒を見れる、見たい、お世話したいとしっかり出来るという期待感。親に言っても「飼えない」と分かっているうえでたくさん調べている。少し前には兄弟で野良猫を竹やぶの中に探しに行っていたくらいすごく熱意を感じています。
「ここは子どもたちの意思に任せてみてもいいかな…」
私が子供の時と全く同じシチュエーションです。子供の熱意が決断した大きな理由です。
レオとの運命的な出会いも含め猫を飼うことにしました。
子どもたちの”猫を飼いたい”に押されて…
「猫をを飼って育てたい。」と子どもたちが言うことに対して私、親として、動物を飼ったことがある自身の経験から反対をしました。それには理由があります。
1、過去に飼っている猫を死なせてしまった。
これは動物を飼う以上避けては通れないところです。過去に私は3匹の猫を飼っていましたが、3度死に目にあっています。それは、言葉が出ない動物にとって全うして生きることが出来たのか?会話が出きていたのであれば…思うのは「幸せだったのかなぁ?」「良かったのかなぁ?」って気持ちだけが残っていることであります。
2,「僕が面倒を見る!」っていうのは嘘。
今の私の子供と同じくらいの年齢のときに、私も親に拾い猫を見せて”飼いたい”と懇願したことがあります。おんなじですよね。私が全て見たわけではなく、姉の多くのサポートがありながらなんと最長で19年生きた猫がいます。私がその子と会ったときは10歳だったので私が29歳のときにお別れです。私が結婚5年目、つまりは家を出て5年。結果私の親が面倒をみていました。
3,ペットが幸せだったと思ってくれたかどうか常に考えてしまう。
未だにある私の中の永遠テーマです。話もしない、鳴くだけ。ある程度行動で感情を読み取ることは出来ても本人の意思はもっと深いところにあるものだと思っています。可愛い可愛いと思いつい手をたくさん差し伸べることもあれば飼い主の事情で一人にさせてしまうとか…。記憶の中でそれはどこかでずっと心残りに私はなっています。
と、長々私なりの理由を述べてきましたが、飼う飼わないとは別に過去にあるネガティブな気持ちを乗り越えなければ私、周り、亡くなったペットに申し訳ない事だと思っています。
そしてレオを手にとって、抱き、家族(特に子どもたち)とともにフィーリングを感じて、乗り越えられそうな、もう乗り越えている…。前を見てただただ向き合っていくだけ。ポジティブに何でも思わせてくれる運命の家族。レオくんです。よろしくおねがいします。
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