ブログを書き始めて扱うのは避けようと思っていた事ですが、昨今のニュースを見ていてどうしても気になってしまうので書くことにしました。書かないと何か前に進めないような気がする自分もいるので。
凄く感じます。良い事をしても評価が薄く悪くネガティブなことであれば話題になり話が大きくなっていくこと。これは子供でも大人でもどこにいても状況はあまり差がなく認めあえない社会の風潮をしみじみと感じています。とても悲しいことです。
良い事って何だろう?
不倫、離婚、自殺。あまり切り込んではいけない話であることは始めに言っておきたいと思いますが、これらはその人たち、あるいはその人同士の問題であって他人が入る余地のないことだと思います。計り知れないこともあるのだと思います。もちろん良い事ではありません。救いたい、助けてほしい、様々な感情が交錯する中で”言えない事情”があるのだと思います。
では既婚者として、人間として生きていく事が良い事なのかどうかと自問自答するとどうでしょうか?決して良いと言える根拠はそこにはありません。
我慢して認められない事を憎み、そもそも振り向いてもくれない。それは果たして幸せなのでしょうか?
自分が思う良い事と言える定義はありません。唯一挙げるのならば”悪い事の反対”が良い事の意味なのだろうと思います。極端な事を言えば人を殺めるのならば人を生かす事が良い事のように、『生かすためにどんな風に思いやってどんな風に評価して信じて認めてあげられるのか?』個々にその思想は違えど感覚は冷静になればなるほどそう感じると思います。
悪い時の自分がどんな自分か把握できるようになる
良いと悪いは対義の関係です。痛みのわかる人は人を傷つけないと言われるように悪いと思う事を身を持って認識していないと本当に良い事なんて分からないはずですし、判断なんてできないと自分は思っています。
自分もたくさんの人を傷つけてきました。解決できずにそのままの事だってあります。
過去は戻せません。でも学習することはできます。這い上がることだってできます。
悪い時の自分が何がいけなかったのか?考えたら考えるほどに罪悪感やネガティブな感情に包まれてしまい、一重に言えませんが、これが鬱なのかな?と思ったこともあります。その深みに入ってしまったらなかなか抜け出せなかったこともあります。心の器がものをいうのだと思います。詰め込みすぎて右にも左にも前にも後ろにも進めない状態を経験したことだってあります。
ただ人間反省できる生き物です。
それに完璧ではないです。
どこかで誰しもが謙虚なはずです。
このどれかが逆に暴走してしまったのであれば壊れるのが人だと思います。始めることを繰り返して、終わりを終わらせない。もがいて心を調整して…。そんな姿を周りが評価をして励ましてくれる、足を引っ張る、流されずに自分を常に持ち続けなければならない。こんな感じがループしている状態が冷静に自分に置き換えると自己中な自分の悪い状態です。
辛すぎて明日死んだら…そう言って簡単に死にはしません。でも何も考えないよりは、そうやって時間を使って自分と向き合うことを大切に悩んでいる方が健全とも言えます。
悪い時の自分の行いが態度がどうであったのか?見つけられないのなら見つけてくれる気づかせてくれる誰かを側に、見つけられたのなら繰り返さないために自分を活かす方法を、それでも見つけられないのなら、見つけられないほど根深くなってしまったのなら行動を起こさず冷静になる事。無理に話さず時間と言う薬を使うのが良い方法なのだと思います。
足りないことは誰もがそうです
初めからできる人なんていません。良い事を良いと初めから知っている人なんていません。悪い事を、痛い辛い苦しいを昇華できた人が初めて持つことのできるものが良い事です。その経験は生かすも殺すも感じて考える密度や濃度で変わるものだと思います。
その経験を与え与えられるのも人ができる所業です。意思疎通ができます。
皆が最初はレベル1の状態であって装備も貧弱。生まれた状態からの経験値を積み年齢という平均値がレベルであるならばレベル100になるのはごくわずかの人しかいません。当然濃度がそれぞれあるので心の成長は個々で違うと思います。
時代が便利になっても人は人でしかないし心を学べるのは人でしかないという事です。
自分が満たされる事と足りていることは違って、瞬時に感じることが満たされる感覚であるならば足りるというのは生きていて一生ないのかもしれません。常にそこは”不足”している状態なのかもしれません。一人から受け継いだ経験値で足りることなく十人、百人、千人という人の経験値を受け継げるのなら足りるかもしれません。自分はきっとキャパオーバーしてしまい鍛え直す必要があるのでできないと思いますが、自分に置き換えても一生埋まることのない部分です。
良い事、補えた事を持って自分は何が言いたいのか、したいのか
冒頭に書いた不倫、離婚、自殺。自分なりに冷静になって感じることは肯定も否定もしないことです。結局は何もできません。ただ死んでしまうのは可哀想ではなくずるいです。これは何かを変えたい救いたいと思っても何も伝える事ができないからです。想像を絶する何かがあるのでしょうが、死人に口無し、過去にも戻ることはできません。
本当にずるくて、本当に胸が締め付けられることです。
他の二つはどうでしょうか?それこそどうでも良いと思えます。当事者はきっと放っておいてほしいのではないでしょうか?冷静に考える事が一番大事、命が有る限り終わりはないです。始まりしかないんです。つまり当事者が一番冷静になる事が大事だという事です。第三者が声をあげてしまったら誇張されてしまい真実が真実ではなくなってしまったり、当事者にしかない経験を経験のない人間が正当性のある言い方をしたら今の世の中どうしても経験のない人に票が集まって事実から足をひっぱてしまう事だってあるんだと思います。
こんな事言ったのなら反対されると思いますが、不倫や離婚は自分はあって良いと思っています。本人同士がよければですが。人生を若い男女が一度で全員決められるとは思えません。育ちが違ったり、合わせることに疲れてすれ違ったりすることは我慢というフィルターを通して絶対あります。焦点が不倫や離婚になってしまいますが、自分がそれでも良いんじゃないかと思う理由は”我慢している事が正当なのか”という疑問からきています。”幸せになる事が正当であって、認め合える事が妥当”冷静になればなるほどそう思います。
良い方向へ進むために…尊敬を忘れない
どんなトラブルや嫌な事があっても自分がまず良い方向へ進むためには誰に対しても良いところを見つけて尊敬する事だと思います。それが苦手な人でもです。必ず誰だって尊敬できるところは持っています。できないのなら自分が認めたくないだけです。
自分よりかっこいい人が側にいたら…自信がなくなりますよね。でもそれをかっこいいと尊敬する事ができたのであればその相手はきっとかっこ良くなる方法を教えてくれ認めてくれるはずです。面白い人も綺麗な人も可愛い人も同じです。たくさん褒める事です。絶対自分に帰ってくると思います。
自分もできている人やそうでない人はいます。それは自分がまだ見つけられていない、認められていない、冷静でいられない。経験が浅いからだと自負しています。
だから自分にも言える事です。
目に見えるものが、耳に聞こえるものが、手に触れるものが…感じられるものがちょっと悪くても良いんです。経験して、それを良い方向へ進められるために世の中が明るくなるように願っています。
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