親の闘病生活の話になります。見る人によっては冷たい表現だと思う箇所もあるかと思います。それにすごい長い記事になりますが、泣きながらリアルを書き留めました。必ずどこかで来るお別れ、”死”との向き合いです。親と子の、人と人の何か一つでもポイントになったら頑張って書いた甲斐があります。時間の許す限りよろしくお願いします。
2年半前父が他界をしました。こんな話の始まり方だとなんとも暗い印象ですが、父が残してくれた病気というものが濃く話をする時間を提供してくれたようで今となっては父から子へ、子から父へ最後且つとても大事な事を教えてくれるきっかけになったことはタイミングであり、本当にかけがえのない時間であったと今でも大切に胸に刻んでいます。生を受け死を迎えるのは必ず巡り合わせがあることであってそれぞれのストーリーがあります。美談ではないですが、父の病気が発覚してから亡くなる約4ヶ月の一つの親子の話をしようかと思います。
肝臓癌、余命3ヶ月の宣告
ちょうど今くらい暑い時期父が『食欲がない』と言っていました。76歳。歳のせいだ!夏バテかなぁ?と思ったのですが、どことなく元気がなく、いつもと雰囲気が違う、風邪をひくこともあまりなく年甲斐もなく暴飲暴食、お酒が好きな人でした。癌が見つかったきっかけは趣味でカラオケ喫茶に通いママさんからの電話でした。
『お父さんいつもお店に来て一曲歌って行くのに、最近兄弟(父の弟を1年の間に2人亡くしました)を立て続けに亡くしたからショックなのかしら?鬱なのかしら?心配だよ。最近は”自分ももうダメかな”なんて弱気を良く言うようになってねぇ。今日なんかお店の前に来て”やっぱり帰ろう”って本当に帰って行くんだから何か様子が変よ。』
父の知らない姿を観察してくれていたこの人は本当にいろんな意味で恩人です。そんな異変に行動したのは長女です。父は糖尿、高血圧持ちでかかりつけの病院があります。父はその病院に自転車で(自分は酒飲みだからと言って、車の免許は取らず生きてきました。立派です。)自分で通っていましたが、カラオケのママからの話の件も踏まえ長女と次男(自分です)3人で診察を受けることに。話をしてからレントゲンを撮り『これは大きな病院で見てもらったほうがいい』と父のいないところで言われ紹介状を書いてもらいました。
癌と知ってこの先生に挨拶に行った時に『毎月来てくれているのに見つけてあげられなくてごめんね』と、今思い出してもその言葉に沁みた事をはっきり覚えています。大きな病院、市民病院なのですが紹介状とROMを提出して、血液検査、精密検査を終えて出た結果が”肝臓癌”のステージ4。余命のことはこちらが聞くまでは教えてくれなかったのですが聞いたら『3ヶ月』とのことでした。父はここの席にはいなかったので癌と言う事実を知りません。先生はさらに話を続けます。『延命をしますか?それとも自然に過ごされますか?』延命治療をして苦しむリスクの説明、一種のギャンブルであること、父は糖尿と血圧の薬の併用があり延命することで癌とは違う病気で亡くなってしまう説明もされました。兄弟で話し合った末、苦しんで欲しくない、その姿を自分たちには看取ることができない、自然に命の終末を”緩和ケア”という選択をしました。
一言にショックでした
かかりつけの病院でのやり取りの中で”もしかしたら…”と脳裏に浮かんではいたものの、実際先生がレントゲン、血液検査の数値の説明をしながら聞くその光景、テレビで見るやつだ…。すごくリアルで何もできないショックがありました。
母は60になる前に『解離性大動脈解離』と言う突然起こった血栓による心臓の細胞の壊死、12時間の手術の果てに力尽きてしまいました。突然の別れでした。
父の場合”命のカウントダウン”が点灯しました。どちらも我々子供にとっては嫌なものです。ただ自分は、きっと他の兄弟もそうしてきたはずです。『母に親孝行が薄かった分手厚くしてあげたい』と。少なくとも母が亡くなって心の整理がひと段落したあとはできなかった事をそれぞれ兄弟、その配偶者や孫たちが後悔なんて言葉が出ないくらいやってきました。それでも3ヶ月と言う短い時間、あまりにも少ない時間です。
何からして良いか混乱をしました
本当に火の打ちどころのない自分にとっては完璧な、今でも尊敬する父親です。頭はいいし、言わずとも人が寄ってくる人柄、付き合い上手、かと言って不器用なのが人間味があって色んな人に愛される。そんな父でした。
『自分には何が出来るんだろう?』
とにかく片道30分掛けて毎日と言っていいほど病院へ通いました。話すこと。普段通りに。特別な感情は忘れいつもみたいに『だから親父はダメなんだ』『今日はどんな可愛い看護婦さんだった?』『仕事がさぁ…』『子供がさぁ…』親子の会話をしに行きました。本来ならば、
・保険の話
・相続の話(家とか土地とか、ない財産とか)
・介護認定の申請などの話
・お墓(母と父の)の話
ここら辺の言い出しにくい話をするべきなのでしょうが、自分は人に恵まれ兄弟、兄弟の配偶者が動いてくれて自分には父との親子としての会話を優先。お墓の話だけで済むように事を運んでくれました。でも、あまりにも重い話です。自分から墓をどうするか?命の話に切り込むようでずっと躊躇していました。
先生からの提案、抗癌剤”TSー1″
これは先生が”TSー1”という抗癌剤を紹介してくれた時の話ですが、『副作用も少ないTSー1という抗癌剤を使ってみましょう。ただお父さんの場合はアスピリンという血液をサラサラにする薬を飲んでいるから一度それを止める必要があります。抗癌剤は血管を弱くしてしまうので、血液サラサラの薬を飲むと出血した時に血が止まらず、もし肝臓で出血してしまうと命の危険性が高まりますから。』
可能性の話ですが、先生の説明では当時このTSー1を使って治る人が1〜2割程度いたそうです。現に父は運良く、いや苦しい姿を見せなかったのかもしれませんが、肝機能の数値(AST、GPT、γーGPT)は異常値ではありましたが改善の兆候がみて取れました。もしかしたら、という思いでこの薬に掛けることにしました。
※この頃には父本人が『俺は癌か?』って聞いていたので認知していたと思います
血液サラサラの薬”アスピリン”を止めた副作用
入院して1ヶ月半が過ぎようとしていたころ、いつもと同じようにお見舞いに行った時に父が左手で右手を支える仕草をしました。『どうしたの?』と聞くと、『右手が上手く握れねぇ、右腕が動かねぇ』と話していました。、右腕が動かない症状は血液をサラサラにする”アスピリン”を止めたことで発症した脳の中の血栓、細胞の壊死の兆候だったようです。
ただ完全に壊死したわけではなかったので、動かなくなった手を動かせるように、利き手でもあったので病院にリハビリを提案させていただきました。(毎日必ずお見舞いが来て喋って、看護婦さん捕まえて話をして、我々かなりうるさい付き添いだったようです)
しかし、リハビリをすると膝から崩れ落ちる、呂律が回らなくなる、目がドローンとして意識が遠のく、その状態を見かねて1週間ほど頑張ったリハビリは中止になりました。入院して2ヶ月が過ぎようとした頃にはついに自分で言葉を発することが難しくなり、途切れ途切れに『か、、、か、、、あ、、、』何を話したいのか理解しづらくなってきました。
遅かったのかもしれません。父に怒られたこともなく、父の前で涙を見せたことのない自分は声を振り絞って『もし親父が居なくなってもさ、一緒に…一緒にお墓を見させてもらってもいいかな?』この状況で返事のできない父を相手に自分はあまりにもズルイ人間だと思って病床の父のお腹の上に頭を置いて顔を隠しながら涙が切れるのを待っていた時に頭を左手で撫でてくれました。前が見えませんでしたが、顔を上げると少しだけ目に涙を浮かべた父が頷いてくれました。この光景は一生忘れません。
最後まで話続けた、親孝行と子孝行の繰り返し
状態はもっと悪くなり、寝たきりの状態で筋肉がなくなり痩せ細り、口を動かすことが出来ないため舌が喉の方に下がっていく事による窒息の可能性、口喉の筋力低下による口からの食事制限(栄養を点滴で採る)皮膚はカサカサになり、お腹は水が溜まり(腹水)、黄疸、まさに癌の事を調べると出てくる症状が父の体に発症していきました。
・嚥下訓練
・ひたすら手足顔にクリームを塗る
・筆談
・目で会話(はいだったら目を縦に、いいえだったら目を横に、耳はしっかり聞こえていたし、考えることも、テレビを見たいことも最後まで要求していました)
父と話が出来なくなったのは残念でしたが、きっと父自身が無念だったと思います。でも耳が聞こえる、意思疎通も自分にはわかる、くすぐって馬鹿みたいなこともできる、自分がキスをしようとすると首を振って姉の友人が同じ事をすると受けて立とうとする馬鹿さ加減は最後まで笑えました。
(マグロが好きなので喉に引っかからないように潰したマグロを黙ってあげたり、チュッパチャップスもこの頃に1度きりでしたが食べさせてあげました。本人は絶対喜んでましたが違反です。医療機関の人の努力が無になってしまいます。ごめんなさい。)
父はサラリーマンである程度の地位まで上り詰めた人なので、会社関係の人やいまだに慕ってくれる人、友達、唯一残っている父の妹が片道4時間掛けて、たくさんの人がお見舞いに来てくれた時、それぞれの人に違う表情をして迎えていたのはそれぞれの人に対しての経緯、一言では言えませんが父なりの父らしい気遣い、思いやりだったのだろうと思います。凄いというより息子から見たその姿は凄まじかったと今でも記憶があります。
自分にはその一つ一つの姿から学べた事、父が見せてくれた子供への孝行”子孝行”なんだと今でも切れる事なく場面場面で思い出しています。
癌の宣告を受けて病院だけにいたわけではありません
話が戻ってしまいますが、父が癌の宣告を受けてから4ヶ月生きることが出来ました。その間家に帰れたのは3日間と一泊二日だけでした。
・3日間をどのように過ごしたか?
一時帰宅ということでこの時は抗がん剤治療を始めた頃の様子です。この時父にとって必要なのは”介護”です。詳しい人は世の中にたくさんいると思うのですが、一重に介護といっても”要支援1、2”と比較的軽いサポートが必要な人と”要介護1、2、3、4、5”と数字が多くなれば多くなるほど生活全般のサポート、要介護5になると父の終末期の状態だと思います。父における介護の必要性は”料理””家事全般””訪問看護”この3つが挙げられます。この頃からふらつきがあったのでバリアフリーの改築を含め『地域包括センター』というところに介護の申請とバリアフリーのための助成金申請を父が一時帰宅をする2週間前くらいに相談しにいきました。
父が実際に一時帰宅をする予定期間は1週間ほどだったと思います。この時の1日の流れは1日2時間程度の介護支援(料理、掃除、お風呂など父が一人で出来ない事をしてもらう)と夕方に病院から訪問看護、メディカルチェックをしに来てもらう。これが毎日の行事だったのですが、3日目に訪問看護にて異常が発見されてしまい病院に戻ることになりました。言っても常に父の子供達が横にいるわけでもなく、父本人としては知らない人に家の事をしてもらうのはわがままですが気分が良くなかったらしく、病院に入院していた方がか心地良かったそうです。
ちなみにバリアフリーの申請は、介護申請が認定されると上限20万円の免除が受けられます。介護グッズのレンタル、購入費用が免除される仕組みでした。
・一泊二日はどのように過ごしたか?
この一泊二日はリハビリしている時期に病院に許可をもらって父と子供4人で一緒に生活をしました。父の好きなうなぎを出前して『食べれるかなぁ?』と思いきや全部食べて幸せそうでした。10メートルくらいある長い廊下も一人で歩くことが出来ないため子供に支えてもらいながら長い廊下の先にあるトイレまでついて行き、お風呂も血管が切れるといけないので裸にしてみんなで拭きました。寝る時は『息が止まらないかなぁ』心配しながら一緒にみんなで寝ました。
・そのほかに外出は出来たのか?
この一泊二日の後わずかな時間でしたが調子の良かった日があり、父が『髪の毛を切りに行きたいのと、かかりつけの病院にお礼をしに行きたい』と言っていつも通っていた床屋さんに(昔からの飲み仲間です)髪を切ってもらい、凄い良い笑顔でした。それとかかりつけの病院がその床屋さんの隣にあるのでお礼の挨拶をしに行きました。どこまでも律儀な人です。話す人に『癌になっちゃった』と気丈に話をする父に何か悲しく、怖くないのかと勇ましくも感じました。
床屋さんも床屋さんで『まぁ、歳だし、たくさん飲んで楽しいことしたんだから良いじゃんか、また飲みに行こう』って父を本当に思いやってくれて言ってくれているんだと感じました。
駄々をこねて同じ病院に3ヶ月入院させていただいた
こんなわがままな家族を言いたい放題言ってなんと3ヶ月も同じところに入院させてくれました。これは言って良いのかわかりませんが病院も経営があって、利益が出る病人でないと入院させてくれません。治る見込みのある患者さんであれば薬の投与、診察、手術で利益は出ます。父の場合は治る可能性のない癌です。相場は1ヶ月程度の入院で”転院”あるいは”自宅療養”が一般的だそうです。
今でも本当に申し訳なかったと思うのですが、担当医の方に『癌ではなくリハビリ患者に変更して入院させ続けてほしい』『リハビリではなく右手の麻痺で入院を伸ばしてほしい』かなり駄々をこねました。あーじゃないかこーじゃないか?しまいには看護婦さんに呼び出されて、『もう限界です』『そこをなんとか』そんなやりとりをしながら3ヶ月も父にとっては居心地の良い場所、希望をかなえてくれました。担当医の方も看護婦さんも上の人に怒られたと言っていましたが、申し訳なく思っています。でも本当に父は幸せ者でした。
※本当に言いすぎると嫌われて肩身が狭くなります。
終末期・終の住処
市民病院での3ヶ月の入院を終えて転院したのは総合病院”終の住処”です。
実は転院先をホテルみたいな綺麗な病院にしようか兄弟で悩んでいました。自分たちも泊まることができる病院です。ただ医療という面では先生が少なく緩和ケアではなく本当に何もしない病院です。と相談をした地域包括センターの方が言っていました。実は父にはまだ野心がありました。それはお墓参りをすること。筆談と意思とのやり取りで生きているうちに必ず行きたいと言っていました。元気だった時は2日に1回は必ず手を合わせに行っていた父にとってはとても大切な母が眠るお墓です。(お互い殴り合いするくらい中の悪い夫婦に見えましたが、母がなくなってお墓に入ってからは今までの溝を埋めるかのように大切にしていました)そのお墓に行くことと、癌を知るきっかけになったカラオケ喫茶のママにお礼をすること。最後にはこの時12月。父の好きな競馬”有馬記念”を見ること。『これを全てやり切るまで死んじゃいかんよ』『生きるだよ』って最後の最後まで日々を生きました。だから転院先は何かあった時に医療が充実している病院を選択しました。ここの担当の先生は粋な事を言ってくれました。それはお墓参り&カラオケ喫茶へのお礼に介護タクシーを使って周りたいと相談した時に『本来は行かせることは出来ません。あなたたちが責められたり、ひょっとかしたら命を縮めてしまったと後悔するかもしれない。ましてや、この状態で外出許可を出したら私の責任になるから。でもね、もしかしたら外で息絶えてしまうかもしれないけどそうしたらご遺体を黙って病院まで運んで私のところに持ってきてください。全部引き受けますから。行ってらっしゃい』病院としてはやってはいけないことなのでしょう。多分。でも最後の最後まで本当に良い人に恵まれているって思いに感謝をしながら最後のプチ旅行をしました。
これが12月の頭でした。もう3ヶ月の宣告は過ぎています。あとは気力の勝負です。最後の最後は”有馬記念”です。この頃はもう呼吸が弱いのが目で見てわかるように1週間通して分かる変化がもっと急激なやつれかたをしているような、言葉にはあらわせないくらい”気力で生きている”勇姿にしか見えませんでした。心の中で(もう良いよ…ありがとう)って思いましたが口では有馬記念までの1日1日をみんなで力を合わせて励まし合い生きました。……24日有馬記念。わずか2分足らずの出来事です。自分はその場に居合わせることが出来ませんでしたが、なんとガッツポーズをしたらしいんです。しかも声ももう出すことがない状態だったのに声にならない声を出していたらしいんです。(姉談。)
そして翌日の25日クリスマスの12時17分永眠をしました。入院生活の中で何か特別な事をしてあげられたわけではありません。誇れることがあるとするなら、より添い遂げた事と一緒に濃い時間を過ごすことが出来た。それだけです。特別な事をしようともこの時期考えたわけではありません。それは皆兄弟が父との日常が常に特別だったという事。そういう事なんだと思います。年が明け、孫へのお年玉。実はこれも姉の計らいだと思うんですが、メッセージ付きで8人分準備していたそうなんです。自分の手で渡すことが出来ない事を予知していたかのように姉に託したそうです。今でもそのお年玉袋は額に飾ってあります。
最後に
実は転院先でも”お見舞いに来すぎなので来ないでください”と言われました。瞬間怒れましたが、周りの患者さんもいるし、そうですよね。と思ってトホホと帰ったことがあります。後日姉がお見舞いに行った時にその看護婦さんに『弟さんに言いすぎました。でも周りの患者さんの中には全くお見舞いがこない。羨ましがる人もいるので配慮してください』と伝えてくれたそうです。あまりに自分が勝手すぎたと反省しました。
”親”とはいつまでも当たり前には居てくれない。でも居てくれると思っていました。
正直、自分は三十半ばのペーペーです。周りを見たらもっと自分の親を頼りたい、頼れずとも存在はあってほしいと思います。少し亡くすには若いと思っています。不安な時もあります。でも最悪でもありません。あれだけ、その時だけではないですが、濃い時間を共有できたこと。欲を言ったらキリがないですからね。もらったものは誇れるくらい質も量も大きいです。つまり今でもここにいて、受け継がれているものだと信じて忘れない感謝をしています。
ずっと大好きです。
というお話でした。
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