不倫会見を盗み聞きしながら書きました。馬鹿げていますが、不倫肯定派?否定派?馬鹿なことをぼやきたいと思います。

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馬鹿なことを承知の上で不倫についてぼやきたいと思います。私自身不倫を悪く想うこともあれば、そこまでとも想う自分がいます。ただ、された側の心情は辛いと思います。する側の気持ちはどうなのか?どうでも良いで済む話ではなく、しっかりと捉えて耳を傾けられたのならその言葉(不倫)の背景が見えたり、単純に簡単な考えになり、冷静になれると思い書かせていただきます。

不倫は良くない”否定派”

『不倫は何が何でもダメだ!』
こう言う人はダメな理由がはっきりしています。
・家族をダメにする
・みんなが傷つく
・当たり前にダメだ!

一言で言えばそんなところだと思います。誰が得をする?そうです。
本人たちがその瞬間理性が0で本能100%、瞬間的に満たされて幸せを感じるんだと思います。
人には誰しも”欲”があります。眠ければ寝る。お腹が空いて物を食べる。恋愛(性欲)に関してはどうなのでしょうか?同じ様にある”欲”です。これは物事の順序がある様に将来を共にするパートナーと一度きりの婚姻を交わしたのなら、一生添い遂げなければならない。これが当たり前であり、ブレる事なく支え合う姿が幸せな形であり、幸せに見えて、祝福される姿なのだと思います。

それに子供の事。私が特に否定的に感じるのはここです。子供は親が守らなければなりません。その自覚があればきっと不倫に対しても現在進行形の人は理性を効かせられるはずです。夢から冷めると思います。バレてしまえば必ず本当に大切な人を不幸にさせてしまう。そうなんだと言い切れます。

不倫は肯定派?

こんな事書いたら『最低っ!』と想うと思います。

”不倫はある意味で仕方がないことです”

実は私自身そう思えて仕方ありません。それにはこんな理由があります。

身だしなみがしっかりしている、優しさがある。

男性だったらビシッとしている、端正な顔立ち、誰にでも優しい。
女性だったら女性らしく、綺麗にしている、可愛い、また優しい。
世の中たくさんいらっしゃいます。相手が同性でも異性でもそんな人がいたら『良いなぁ』って想うはずです。それはイコールではありませんが、気がつかないだけの悪い言い方”伏線”と言う魔術です。
でも私もカッコよく妻以外からも見られていたいし、最低限の身だしなみは整えていたいです。

”優しさ”

これも想う節があります。誰にでも優しい人には必ずと言って良いほど人が寄ってきます。ただ良くないのは特定の人に優しいと言うところです。これがいわゆる”伏線”です。

結婚という制度

実は結婚の制度は200年ほどしか歴史がないんです。じゃあその前はどうなっていたのかというと、気の許すまま生活をしていたのでしょう。今の時代はこの結婚という制度はどうなんだろうと少し考えさせられることがあります。我慢している、仕方なく結婚という生活の延長線上に突っ立ているのだとしたら、私自身何もメリットはないと思います。

出会いが簡単になった、犯罪が増えた?情報が増えた?

肯定も否定もなくなってきますが、出会いも情報もネットによって容易になったことで人の本質を見抜けなくなってしまった?と少し想うところもあります。犯罪は元からある物なのか、細かなところまで知れる様になり理性を効かせられる情報として便利にもなりました。

私が思うところ”誘惑””伏線”が恋愛(性欲)の目の前に置かれた時に人はどう向き合えるのか?大人気で大ファンの〇〇さんが目の前に現れて、誘惑されたらどうなってしまうのか?きっと結婚をしている事実があっても、理性を100%効かせることができなくなり、少しだけでも迷いが生じると思います。

依存性があることも…

例えばゲーム、お酒、ギャンブル、楽しいはずの事が行き過ぎると”依存症””中毒”といわれます。
同じように性的なものに対しても依存という言葉は当てはまるように一種の病気、人が定めた病なのだと思います。だから周りに打ち明ける事がなかなか出来ないし、自身がいけないことだと認めたくはない。判断が付かない。極論、恋の病には正解不正解がないんだと思います。踏みいる事は本能で動き、幸福感を得られる。反して抜け出す時には莫大なエネルギーを使い理性で踏みとどまる習慣をつける。
共通して言える事です。
人が人と対峙して、世の中にモノがある以上、それぞれが価値を見出して求めていくのは過去も未来も同じです。
だから私は否定よりも、こういうことに感情が入る事は当たり前にあるものだと、犯罪は別物として普通な事なんだとある一定の理解をしてしまいます。

結局のところ未熟であり、認め、反省しなければいけないのだと思います。

バァーっと書きましたが、責めるも許すも他人がどうこうではなくてお互い当事者がどうなのかというところだと強く思います。

私は妻にこう話をしています。
『もし誰か違う人を好きになってそっちに走り続けてしまったら、自分に足らないところがあるのだと認め、反省をするよ。それに男、女という自覚はずっと持っていて欲しいし、いろんな人から魅力的に見える様に努力するためには、攻め続けないとね。そんなパートナーを自慢したいから。』と。
結婚をして婚姻関係に縛られることは男女の成長とは言えません。持論ですが。今でも、今までも14年結婚してから経ちますが、たくさん夫婦として花を咲かせてくれたこと、子育てに時間を費やして、決して得意ではない料理、掃除をしてくれて、十分なんですよ。
綺麗事かもしれません。が、続けて言いました。
『もし、不倫でなくても別れるという判断をしなければいけなくなった時は先々に幸せになる約束をして別れようね。もし、今疲れを感じていて将来このまま歳をとってお互い介護に疲れるなんて思って生活するとか、そんな想像しかできなくなって一緒にいる方がどれだけ不幸なのか、そうならないためにも認め、許すことの許容を大きくしていきたいね』

お互いが見つめ合えなくなった瞬間に崩れていく物だと思います。一生隣にいたら何度も背けたくなることだってあると思います。でも本当の意味で最終的な真の理解者はパートナーである妻。手を離さずに”あなたを選んで幸せだった”と死ぬ時には言われ、言いたいです。

この先どんなきっかけがあるかは分かりません。私自身にも妻にも誰にでも可能性はあると思います。せめて私は妻を、妻は私の理解者でいられる様な関係、結婚=結婚という時代ではないのかもしれないということを報道を見ながら本質を読み解こうとした今日の話でした。

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